みんこ先生の着物にまつわる うぇぶろぐ

銘仙

e0005204_22242086.jpgギフロマンチカで撮った写真を家で見せていた時に、
「何コレ、派手な着物!(@@)」と驚きの声。
どれのことだろう?と思って覗き込んでみたら、ショーウインドウに飾られていた、→の写真でした。
なので私は、「何言っとんのー!この着物を見て、何人の人が、“懐かしい、昔はみんなこういうの着てたねぇ”と言とったことか。これは昔の普段着だったんだよ。今は古着屋で高く売られてるけど。」と、得意げに言ったところ、
「え~!昔はこんな派手なの着てたの?!」とさらに驚いていたので、さらに得意げに
「そうだよ~ほんとに何人もの人に言われたんだから。」と言い放ちました。

と、得意げに言い放っていたものの、実はこの派手な着物『銘仙』については、人が話しているのを聞いた程度の認識で、どれくらい昔のものなのか?なぜこれが普段着だったのか?なぜ今は高いのか?あまりよく知らなかったのです。(^^;
なのでちょっと『銘仙』について調べてみました。
参考にしたのは主にこちらのHPです→順子のきもの想い語り-銘仙編-
『kimono姫』に掲載された記事とのことなので、『kimono姫』愛読者はとっくに知ってることかも(^^;


銘仙とは、先染めの平織りの絹織物
(先染め:糸を先に染めてから織ったもの ⇔ 後染め:白生地にしてから染めたもの)
銘仙の源流は、屑繭や玉繭からとった太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な縞織物(太織)。 養蚕地帯の人々の自家用のものでした。

江戸時代に養蚕の盛んな群馬県、埼玉県で絹の練り糸の太い物を使って絣や縞の紋様の大衆的な反物が織られる様になる。
江戸末期から明治にかけて大衆着物の人口増加と共に需要が増大
明治期の縞柄の流行に乗って関東一円で着られるようになり(「縞銘仙」)、大正期には絣模様を織り出した「絣銘仙」が流行。
生産地は、伊勢崎、桐生(群馬県)、秩父(埼玉県)、足利(栃木県)、八王子(東京都)など北関東・西関東が中心。
 
銘仙の生産を一新したのは、大正の中頃に発明された「解(ほぐ)し織」の技法です。《経(たて)糸を並べてずれないようにざっくり仮織りした上で、模様を捺染し、仮織の緯糸を抜いて解(ほぐ)しながら、再び緯糸を通して本織する》この技法によって、たくさんの色を用いた複雑な柄の着尺を効率よく生産できるようになりました。またこの頃から伝統的な天然染料に代わって染色効率が抜群によく色の彩度が高い人工染料が用いられるようになりました。
こうした技術革新を背景に、大正末期~昭和初期モダン文化の流行に乗って、欧米の洋服地デザインの影響を受けた大胆でハイカラ、色鮮やかな「模様銘仙」が大流行しました。
模様銘仙のデザインは、着物でありながら、ヨーロッパアートの潮流をしっかり受け止めていました。大正期の模様銘仙には曲線的なアールヌーボーの影響がはっきりみられ、昭和に入ると直線的で幾何学的なアールデコ調が出現します。
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工場で大量生産される安価な銘仙の出現によって、それまでは木綿しか着られなかった庶民の女性までが絹の着物に袖を通すことができるようになり、大正後期~昭和期初期に、銘仙は、東京を中心に中産階級の普段着、庶民のおしゃれ着、あるいはカフェの女給の仕事着として地位を確立しました。

大正14年の5月の銀座で一番女の人が着ていたのが、洋服でもなく友禅でもなく銘仙だったんです。羽織と着物を合わせると51%という結果が出ています。
糸が粗くて劣るってことは、要は値段が非常に安いということで、一般の人がどんどん買うようになったんです。(ほぼ日刊イトイ新聞より)


銘仙は、日本が戦後の荒廃から立ち直り、繊維製品の統制が解除された昭和20年代後半から30年代前半(1950~1960)にも、伊勢崎を中心に生産され、アメリカの洋服地を模倣した大柄で華やかなデザインのものが大流行しました
しかし、それはつかの間の繁栄で、昭和32年(1957)にウール着尺が発明されてブームになると、その地位を取って替わられ、着物が普段着の地位を失った昭和40年代(1965~)以降はほとんど姿を消してしまいました
 
今、アンティーク着物として私たちが手に取る銘仙は、ほとんどが「模様銘仙」か「絣銘仙」です。昭和初期のものなら70年前後、戦後のものでも40年前後も昔の着物ということになります。

銘仙は庶民的でありながら都会的な華と艶をもった娘らしさを感じさせる着尺というイメージと、もう一つのイメージの系譜がありました。それは、接客業にたずさわる女性の着物としてのイメージです。
大正期の牛鍋屋の仲居の赤銘仙、昭和前期のカフェの女給の白いエプロンの下の銘仙の着物、戦後の赤線地帯(公認買売売春地域)の女給(実態は娼婦)の華やかな模様銘仙など、男性にサービスすることを仕事にした彼女たちが好んで着たのが、安価で派手な色柄の銘仙でした。
したがって、男性の側には、華やかな銘仙を着た女性には、色気と媚び、つまりセクシュアルなイメージがあったようです。


と、長々と参考HPの文章を引用しましたが、当初の疑問、
 ・どれくらい昔のものなのか?
 ・なぜこれが普段着だったのか?
 ・なぜ今は高いのか?
を私なりの解釈でまとめてみると、、、

・どれくらい昔?
始まりは江戸時代までさかのぼるけど、一番流行ったのは大正末期~昭和初期。昭和30年代に衰退。

・なぜこれが普段着
お蚕(かいこ)さんが作った繭(まゆ)から細くてきれいな絹糸をとる中で、太かったり、ぼこぼこのある、製品にならないダメ絹糸を利用して自家用の織物にしていたのが始まりなので最初から普段着の位置づけだった。
人工染料や技術の発達により、モダン文化の流行に乗った、洋服地を真似た大胆でハイカラなデザインにすることができ、糸が粗くて劣っているということで値段が安く庶民が買いやすかったから。

・なぜ今は高い?
ブームの衰退と共に生産が激減し、今残っているものは希少価値が高いから。
最近になり、当時の技術を持った職人さんが復刻版を生産しているそうだが、当時の職人さんは当然高齢なため、いつまで続けられるかわからないとのこと。
復刻版銘仙を扱っているネットショップもあるので、どうしても銘仙を自分サイズで着たいという方はおすすめ。

備考
銘仙ブームが去った理由として、ウール着尺がブームになったことがあげられていたけど、
銘仙 → セクシャルなイメージ → 娼婦(あまりよくないイメージ)
娼婦 → 赤線の廃止 → 銘仙の衰退
という連鎖も考えられるかも?

ギフロマンチカでお会いした、元キモノ乙女の「昔はみんなこういうのを着てた」という言葉がホントに本当だったという認識ができ、さらに得意げに「何言っとんのー!」と言えるようになりました(笑)。
なお、さらに詳しい情報、または「あんたの認識違ってるよー」という点がありましたら、是非お知らせください。m(__)m
by minko1234 | 2006-04-12 23:12
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高校が一宮高校被服科でした。3年生で和裁班を選択。和裁と和裁の合間に普通授業がありました(--;

25歳より京都に本部のある「新装きもの学院」で着付けを習い始め、27歳で師範の免許をいただきました。
新装きもの学院(京都)

着付けを通じて、たくさんのいい出会いがありました。
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同じ位置でとどまらず、日々向上していかなければとがんばっています。
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